これまでのSaiトピックス

SaiVol.5(1992年秋冬号より)

府外教を実らせた大阪の土壌

設立までの二○年

稲富 進

一〇月一七日に、大阪府在日外国人教育研究協議会(以下、「府外教」と略す)が発足した。
 大阪の在日朝鮮人教育に長年かかわってこられた稲富進さんに「府外教」設立までをふり返ってもらった。

「朝鮮人の子どもの教育は日本人教師にはできない!?」

 在日朝鮮人教育が、大阪で本格
的にとりくまれ始めたのは二〇年ほど前のことです。「府外教」ができたのは、この二〇年間の教育現場での実践の積み重ねと、それを支えてきた力の総和だと、わたしは思っています。けっして、にわかにできたものではないという認識が大切ですね。
 敗戦後ずっと、日本の学校の中に朝鮮人が学んでいたわけですが、一九七〇年代に入るまで、学校現場で、朝鮮人に焦点をあてたとりくみはほとんどありませんでした。理由はいろいろあるのですが、わたしたち日本人の教師の中に、「朝鮮人は他民族である。他民族を教育するというのは、日本の学校教育ではできない、日本人の教師ではできない」という考えがあって、それにとらわれていた面があります。

「民族学校の門まで」という限界

 「民族学校の門まで」ということばがありますが、「民族学校の門へ連れていく」ことが日本人教師の課題だと思っていました。でも、子どもたちが実際に民族学校へ行ったのかといえば、そんな状況にはなかったわけです。日本社会に根づいたきびしい差別があるのに、「民族学校の門まで」といったところで、・理念・理屈をいっているにすぎない。そんなものがオモニやアポヂたちに受け入れられるわけがありません。 

「それじゃあ、わたしたちはどう
やってメシを食っていくんだ。日本社会で暮らしていこうとするときに、日本の文化や生活習慣を身につけないとどうにもならないじゃないか」。

 「たとえ、子どもを民族学校へやったところで、学校に対する差別があって、卒業しても大学を受けられないじゃないか」。

 そういう問題にほおかむりしたままで、「民族学校の門へ連れていく」なんて、一体何事だという親たちの意識がずっとあったのに、日本人教師たちは気づかないまま過ごしてきたのです。

部落解放運動の高まりの中で変わった状況

 そうした状況を変えたのは、一九六〇年代に、関西を中心として広がってきた部落解放運動の高まりでした。「あなた方のやっている教育は民主教育なのか」と問いかけがあり、教育そのものを根っこから問いなおしていく運動だったのです。具体的には、越境通学の問題がありました。
 大阪市内のある有名進学校には、地元以外からふくれあがるほど通学してきている。反面、被差別部落を校区にもつ学校では、部落外の子どもたちはみんな越境してしまって、部落の子どもたちしか通っていないような状態になっていたわけです。当時、一般の高校進学率が七〇%ぐらいでしたが、部落の子どもたちが通っている学校では三〇数%になってしまうのです。
 部落のお父ちゃんやお母ちゃんたちは、 「これだけ格差があるのに、越境通学をほったらかしにしてていいんですか。これは差別とちがうんですか。部落差別に目を向けない教育が民主教育といえますか」と声をあげたのです。
 具体的な課題をつきつけられ、教師たちは真剣に考えました。自分たちの教育は、差別をなくしていこうとする実践になっているだろうか。そう問い返していく中で、部落問題が見えてきました。
 そして、「差別の現実に学べ」というよびかけが広がっていきました。一人一人の子どもたちの抱えている問題や親たちの置かれている状況をきちんと見ていこう、目の前の一人一人の子どもによりそっていこうということですから、部落問題だけでなく、他の問題も浮かび上がってきました。たとえば、高槻市立第六中学校での在日朝鮮人生徒に対する進路保障のとりくみにつながっていきました。

朝鮮人の子どものための「民族学級」を

 大阪市西成区の長橋小学校で、被差別部落の子どもたちに、部落差別をなくし、乗り越えていくための学力を保障するために「補充学級」の実践をすすめていました。地域には朝鮮人も大勢住んでいましたから、朝鮮人の子どもも多数在籍しています。その子どもたちが、「先生、ぼくらも勉強わからへんねん。そやから『補充学級』でいっしょに勉強教えてえな」といいだしたんですね。教師たちは「補充学級」は部落差別をなくすためにあることをいって、断った。そうしたら、「何や先生、ぼくらのこと差別するんか」と返ってきた。教師たちは頭を抱えてカンカンガクガク議論を続けた。朝鮮人の子どもたちのための学級は何を軸にしていったらいいんだろうか。そこから、民族差別をなくし、民族的自覚を高めるための教育の必要性が認識されるようになり、民族差別をはねのけ、立ち上がっていく子どもを育てる「民族学級」をつくろうということになりました。

実践を研究・推進していく組織の必要性

 一九八八年七月に、大阪府教育委員会が「在日韓国・朝鮮人問題に関する指導の指針」を出しました。そういったひとつひとつの動きが、行政に、行政として何ができるのか、自分たちの主体的な責任というものを自覚させた結果だと思います。そして、この指針が出たことによって、ひとつの流れが生まれ、とりくみが広がっていきました。その流れが、実践を研究・推進していく組織の必要性を生み、在日外国人教育研究協議会が必要じゃないかという議論をよび、「府外教」の結成にいたったわけです。
 行政が重い腰を上げた背景には、国際化の間題があったと思います。これまでは在日外国人というと、圧倒的に韓国・朝鮮人でしたが、最近でほそうでなくなってきている。日本で働きたいと願うアジア諸国の人々、技術研修を受けたいという人々がさまざまな形で日本にやってきています。

差別をとらえる視点から見えてくるもの

 
差別をとらえる視点が教師たちの中に育ってくると、さらにいろいろなことが見えてきました。
 たとえば、一九四八年に朝鮮人の自主的な民族学校が日本政府やGHQの弾圧を受けて、つぶされようとしたとき、各地で自分たちの民族教育を守れというとりくみがされました。最終的には学校はつぶされ、白本の学校に分散して通うことになってしまいましたが、朝鮮人は、民族の文化や歴史を教えてほしいということを要求し続けました。そして、妥協の産物ではありますが、日本の学校の中に「民族学級」が設置され、三〇数名の民族講師が赴任しました。こういういきさつもだんだんわかってきたわけです。そして、時期的に、このときかわされた「覚書」にもとづいて、民族学級の民族講師が定年をむかえつつあったので、後任の問題にとりくみました。それまで冷たかった日本人の教師が動きだしたのを見て、朝鮮人の側からも、積極的に教育や生活に対する要求が出始めました。それからは、お互いに触発しあいながら、さまざまな活動を生み出してきました。この二〇年間が、今日の「府外教」の土壌になっているとおもいます。

変わっていかぜるをえない学校

 そういう流れの変化の中で、学校そのものも変わらざるをえなくなってきています。中国との国交回復で帰国してきた人々とその家族。日中「混血(ダブル)」の子どもたちが日本の学校にどんどん入ってきています。また、難民条約批准によって受け入れたベトナム人。八尾市内の小学校でも、ベトナム人の子どもが一〇数人通っているところがあります。多様な民族がはいってきたことに、どう対応していくのかが、行政の側に新たな課題として問われてきたわけです。
 教育現場では、すでに、さまざまな問題にぶつかっています。日本人の子どもは、異文化に対する理解・尊重の態度が充分育てれられてきていない。だから、異民族の子どもとぶつかって、トラブルが生じてしまう。日本語がおぼつかない子どもを、いじめの対象にしてしまうようなことが、あちこちで起こっています。韓国・朝鮮人の教育はもちろんのこと、他の民族の子どもたちも視野に入れた、民族共生の原理をふまえた教育システム・内容を考えていかなければ、国際社会の一員としてやっていけないだろうと思います。

お互いに尊重しあえる子どもたちを育てる

 これまでの日本の教育は、他民族に対して相手の民族性を認めず、身も心も日本人になることを求めて来ました。同化が当然だと思ってきたわけです。つまり、「府外教」設立までの二〇年間は、同化教育の不当性に気づいていく道のりであったと思います。同化しようとする意識の裏側には、他民族に対する蔑視や偏見が隠れていることに思いいたりました。これからは民族的アイデンティティを尊重しつつ、日本社会に適応してもらおうという視点が生きてくると思います。それぞれの民族が営々と積み重ね、受け継いできた歴史や文化を理解し、お互いに尊重しあえる子どもたちを育てることは、日本に生きる子どもたちの共通の課題と考えてよいのではないでしょうか。

文部省の教育姿勢を変えていく力に

 将来的には、「府外教」は文部省の教育姿勢を変えていく力になりたいですね。というのは、日本の教育制度は、「単一民族国家」という考え方が背景にあって、日本人の子どもだけを対象にした学校システムしかつくってこなかったわけです。日本は日本人だけの国なのだという考え方・意識を打ち破っていくためにも、システムを変えていかなければなりません。たとえば、外国からきた子どもたちのために日本語指導をする加配教員が、全国で二〇七名います。そのほかにも施策をどう変えていったらいいのか、「府外教」でも研究しなければなりません。文化や言葉のちがいを受けとめるために、たとえば、留学生たちと協力してなにかできないかとか。民族学級や地域の子ども会活動も、民族的アイデンティティを尊重するものとして制度的に保障するといったことも考えていきたいですね。

(いなとみ=すすむ 大阪府在日外国人教育研究協議会研究顧問)

SaiVol.4(1992年秋号より)

私の意志が半分、先生の意志が半分

              
福岡市立竹宮中学校
                          
永井俊策

「どうして韓国人に生んだんだ?」

 「先生、ごぶさたしています。お元気ですか。少し白髪が増えましたね。
 私は、五月二三日放映の『中国平和の旅』のテレビ番組を見ました。先生たちの行動が面白くないと思っている日本人がいっぱいおるっちゃね。だから、『あなた方は、日本人の皮をかぶった中国人、それとも朝鮮人?』なんて書いてよ
こす人間がおるとよね。
 先生がその手紙を竹宮中の生徒の前で読みあげる場面を見たとき、めっちゃくちゃ頭にきた。一体どんな奴がその手紙出したとかいな
・・・・。
 私は在日韓国人として、中学生という貴重な時期に先生と出会って本当に良かったと思っています。私が結婚して、生まれた子どもに『どうして自分を韓国人に生んだんだ?』 って言われたら、どんなふうに言えばいいのかな?実際、この言葉は私が小学校の頃、親に
言って困らせたことがある。
 でも、先生と出会ったり、韓国に行ったりして、誇りとまでは言えんけど、『韓国人はイヤ!』とは思わんようになった。……」


 突然、数年前に席田中学校で卒業させた、在日韓国人三世の由起子からの長文の手紙をもらった。
 親しい友人に、自分が在日韓国人であることを打ち明けたときの、その友人の目が忘れられないと語っていたツッパリの由起子。しかし、卒業証書は本名でもらい、親に聞かれて、『私の意志が半分、先生の意志が半分』と答えたという由起子。その由起子からもらった手紙は本当にうれしかった。

「点としてのとりくみから」

 現在、在日を生きる朝鮮人の子どもたちが、福岡市内の公立小・中学校に八六六名在籍している(実際には「帰化」した子どもたちまで含めると、約二千名と言われている)。そして、そのほとんどの子どもたちが、「通名」(日本名)での通学を余儀なくされているのが実態である。
 福岡市内に六八校ある中学校のうち、外国籍の生徒がいない学校はわずか八校にすぎない。しかしながら、意識的な在日朝鮮人教育のとりくみが、多少なりともおこなわれている学校はほんの数校でしかない。まだまだ「点」としてのとりくみでしかない。
 前述の席田中学校は私の前任校だが、由起子が在籍した当時、三学年合わせて一二名の子どもたち全員が「通名」で通う現実を目の前にしながらも、「私は日本人教師として、日本人の子どもも、在日韓国・朝鮮人の子どもも平等に扱っているから、決して差別などしていない」と断言する教師たち。地域社会の中で生き抜くすべとして、鋭い本能的なまでの感覚として「日本人」を装って生きることを身につけた親たち。そして、そのはざまで自身の存在に確信を持てず、揺れる「在日」の子どもたち。
 筑豊における、炭鉱夫として働きはじめて、朝鮮人が福岡に住みついて、すでに一世紀が過ぎた。日本の中で最も古い地域のひとつとして「在日」の歴史を刻みながらも、差別の縦割り構造の中で、部落差別は見えても、隣の朝鮮人差別がみえないという道を歩んできた福岡の解放教育の歴史。
 こうした困難な状況がないまぜとなった背景の下に、福岡市の、いや、席田中学校の在日朝鮮人教育がはじまった。

実践の広がりをみんなのものに

 「観光地広島から被爆地ヒロシマへ」をテーマにした修学旅行では、被差別部落のヒバクシャや朝鮮人ヒバクシャからの「聞き取り」をメインにしてとりくみがすすめられ、その事前学習として、九州朝鮮歌舞団を招いての「朝鮮を知る学習会」が子どもたちの手によって企画・運営された。
 さらに、その修学旅行に先行するとりくみとしては、「六・一九福岡大空襲」の平和授業に関連させ、地域に住む在日朝鮮人一世の文さんからの聞き取りをもとに、「席田飛行場(現在の福岡空港)を作ったのは朝鮮民族だ」という紙芝居を完成させた。
 現在の福岡空港は、敗戦直前に陸軍席田飛行場としてつくられたのであるが、その際に敷地内にあった被差別部落を強制的に移転させ、同時に飛行場建設工事には学生の動員とともに、米軍捕虜や朝鮮人を強制労働させて労働力としたのである。その経過とともに、「日本人はゲンコツ一つ、朝鮮人はゲンコツ二つ!」と日本人教師が公言してはばからなかった当時の小学校における差別教育などを紙芝居にし、さらにそれをスライド映画にもしていった。
 こうしたとりくみの過程で、前述の由紀子とは別に、Iの朝鮮人宣言などがなされていた。
 その後も席田中学校においては、文化祭での在日朝鮮人生徒の起ち上がりをテーマにした劇「共に胸張って!」のとりくみや、社会科の授業実践、小学校と中学校をつないでの入学前からの家庭訪問、在日朝鮮人の子どもどおしをつないでの学力保障のための「促進学級」づくりなどがおこなわれ、校内組織としても、「在日外国人教育推進委員会」の設置が要求されているといった動きになっていた。
 しかしながら、福岡市内に二〇〇余りある公立小・中学校で、こうした席田中学校のような教育実践ができている学校は、ほんの数校でしかないのが実状である。「福岡・在日朝鮮人教育を考える会」の会員がふえ、福岡市同和教育研究会の夏期合宿研修会の「在日朝鮮人教育分散会」で報告されるレポートがふえ、少しずつ福岡市内における在日朝鮮人教育の広がりができてきていることは確かであるが、被差別部落のない学校での実践の広がりこそが要求されている。

一番身近で、昔から深いかかわりを持った隣の国を見つめることから始めよう

 そんな中で、福岡市南区のある中学校では、個人の実践ではあるが、「周りの日本人の子どもにこそ、正しい朝鮮・朝鮮人観を!」というとりくみがおこなわれている。
 在日朝鮮人生徒が一人もいない学年ではあるが、教師と生徒数名による学習会がもたれたり、朝鮮通信使がきたとき、福岡藩の接待所が設けられた相ノ島のフィールドワークが実施されたりしている。玄海灘に浮かぶ小島につくられた有待亭のフィールドワークは、福岡の朝鮮人集住地の形成史とともに、地域教材のほりおこしの動きにも連なっている。
 相ノ島のフィールドワークに参加した一人の日本人女子中学生は校内弁論大会で以下のように述べ、「明治」維新以降、現在にいたる、日本の「脱亜入欧」論よろしく、欧米の一辺倒の表面的な「国際化」を鋭くついている。

 「私は正直に言うと、M中の国際理解教育は欧米にばかり目を向けて、アジアの国々はオマケ位にしか考えていないように感じるのです。(中略)対馬に限らず、昔から日本は朝鮮との交流が大変深かったのです。過去にこれほどまでに朝鮮とのつきあいがあったにもかかわらず、なぜ現在の日本人は朝鮮、大きく言えばアジアに目を向けようとはしないのでしょうか。その最大の原因は『差別』です。(中略)一番身近で、昔から一番深いかかわりを持った隣の国、韓国を見つめることから始めようではありませんか」。

 こうした感性をもった日本人の子どもたちこそ、学校教育の中で育てていきたい。(※文中の「朝鮮人」は、民族の総称として、韓国籍・朝鮮籍・日本籍朝鮮人のすべてを含みます)

(ながい=しゆんさく)


SaiVol.3(1992年夏号より)
お茶・お華」と私
       (
姜 朱実)

「へえ!珍しいねェ」

 「へえ!珍しいねェ」「何でまた、そんな気になったん?」・・・。
 こんな言葉が返ってきたのは一度や二度のことではない。私の職業を尋ねた人たちの反応である。
 本人はぜんぜんそう思っていない.。
 韓国人が「お茶・お華」を職業にしていることがそんなに珍しいのだろうか?「日本の伝統文化」という潜在意識がそんな答えとして返ってくるのでは、と思える。
 では、なぜピアノ・バイオリン・バレエなどは不思議に思わないのだろうか?
 「西洋文化」であれば自然に受け入れられるのに、「日本文化」となれば敏感に反応してしまう。
 目本人の民族意識には「伝統文化」と「外国人」の組み合わせに違和感がある。「在日」の側では「日本文化」への習熟に同化の危機を感じるのではと思う。それゆえに許せないのだろうか。

自分なりの文化をつかむために

 しかし、私は世界でも数少ない、自らの境遇のおかげ(?)で、日本人とは「お茶・お華」の学び方も違った形で勉強しているつもりだ。
 たとえば、お茶の歴史ひとつにしても、日本人が疑問に感じずに読み過ごしている箇所を、私は「あれェ、変だナァ、ウソ!」と自分ひとりで見つけては、調べてみたり、勝手な解釈をしては楽しんでいる。
 「祖国の文化」ではなく、「日本の文化」の中で生まれ、育ってきた私たち二世・三世の中には、いろんな文化を身につけている人がたくさんいる。日本の文化であれ、西洋の文化であれ、好きなのは何でも受け入れ、その中からよいものを自分自身で選び、吸収すればいい 。
 自分の置かれている立場(特に日本での)を認識し、“自分”をしっかり見つめ、いろんな文化を勉強して、自分なりの文化をつかんでみたい。



SaiVol.2(1992年春号より)

韓国・朝鮮人BC級戦犯問題を通じて、日本の戦後を問う-内海 愛子さん

 日本の戦争責任、植民地支配の償いのあり方が今クローズアップされている。半世紀近く語られなかった歴史の事実が明らかになりつつある。
 そんななか、早くから地道にこうしたテーマにとりくんできた数少ない日本人の一人が内海愛子さんだ。
 昨年十一月、東京地裁に、第二次大戦後、連合国の裁判でBC級戦犯とされた韓国・朝鮮人が、日本政府に謝罪と補償を求める裁判にふみきった。
 「すでに三五年間、かれらは要請と抗議の声をあげてきたけれど、見通しが立たなかったんです。ようやく戦後補償の流れができて、当事者たちは死ぬまでにもう一度自分たちの思いを伝えたい、それを私たちが支援しているだけです」。
 韓国・朝鮮人の戦犯のほとんどは捕虜監視員。日本の戦争責任が問われた時、日本軍の虐待が問題にされ、身近に接していた監視員が、書類だけで告発された。そのため、二四八人の韓国・朝鮮人が戦犯になり、二三人が処刑された。
 「戦場という極限状況のなかで、連合国と日本の文化や価値観のちがい、国力の差が、捕虜と監視員の間ではっきり出てきた。たとえば、ビンタ一つとっても、まったく考え方がちがっていたのです」。
 「BC級の問題は複雑です。本国の人には戦争協力者、対日協力者ととらえられたり。まず事実を知ってほしい」。
 学生の頃から女性差別は敏感に感じて、差別問題に関心があった。大学ではアメリカ黒人文学を専攻したが、在日朝鮮人問題は見えなかった。この間題を考えるようになった直接のきっかけは、卒業後、教師になって、関東大震災の朝鮮人虐殺のルポタージュを手にして、ショックを受けたこと。
 「半世紀もたたないのに、なぜ東京に生まれ育った私にさえ足もとの歴史がいままで見えなかったのか学校で習ってきた歴史は何だったのか考えました。
 大学に入りなおし、社会学を学んだ。いま、大学では少数者の人権とアジアを共に、「日本・アジア関係」と「平和研究入門」などを教えている。
 日本は、朝鮮半島を植民地にしただけでなく、戦争にかりたてた。被害−加害の歴史は「大東亜共栄圏」のなかで重層的なものとなり、問題はもっと大きく広がっている。
 インドネシアやマレーシアなど、かつての本の占領地域を訪問する時も、そこに連れて来られていた朝鮮人のことを必ず頭の片隅においているという。
 「この人たちに日本の戦争責任を肩代わりさせてしまった私たちの戦後とは何だったのか。日本の戦後のありようを問い返す作業を続けていきたいですね」。(佐野純子)

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SaiVol.1(1991年冬号より)

 在日外国人にたいする社会保障は、一九八二年までははとんどなかった。わずかに生活保護と国民健康保険などがあり、しかも権利として認められたものではなかった。
 日本国籍をもたない者は、日本の法律の適用外にされてきた。ところが、日本が「内外人平等」をうたう難民条約に入ったことで、八二年一月一日からは国籍の壁がなくなり、在日外国人も社会保障を受けられるようになった。
 しかし、それからも阻外された人々がいた。当時、二○歳を越えていた障害者、六〇歳以上の高齢者たちだ。
 八六年四月一日から新しい国民年金制度がはじまった。基礎年金の導入にともない、それまでの障害福祉年金は傷害基礎年金と改称され、年金額も増やされたが、ここでもまた八二年一月一日の時点で二○歳を越えていた在日外国人障害者は対象にならなかった。
 季刊Saiでは、年金の国籍条項を完全に撒廃させる運動にとりくんでいる二人の障害者から思いを寄せてもらった。

無年金という民族差別の撤廃を目指して
      
      李幸宏(イ ヘンプァン)

◆自分自身にとってのそもそもの始まり私は、一九七九年に養護学校の高等部を卒業したのですが、自分に年金がないと知ったのは、それからしばらくしてからだったと思います。だいたい誰に確かめたのか、何人かの人に聞いたりしていたので忘れてしまっているんですが、役場に勤めている知人に確かめたと思います。自分たち障害者には二〇歳になれば、不十分ながら年金が出るという事は、生活の前提のように考えていましたのでショックでした。
 年金が支給されるはずの二〇歳の頃は私はまだひどく金がない頃でもありました。いまもつとめている印刷工場に併設している授産施設(仕事の訓練施設のような位置づけの施設)で高校を卒業してから働いていたのですが、そのころは月に一〜二万の収入しかありませんでした(今は正式雇用になっていますのでだいぶましになっていますが)。
 私の将来に対する不安のなかで、親も「帰化」をしようかと真剣に考えていました(当時は日本国籍をとれば年金が支給されると考えていた。実際には「障害者になったときが外国人だった」という理由で支給されない)。悩んでいる父親に対して、どうするのか問うた時に「そんなに日本人になりたいのか」と吐き捨てるように言った父の言葉は忘れられません。その矢先に父は病気で急死しました。
 父の言葉は重く私の中に残り、父の言葉の背景と自分のこれからの生き方を必死で考えるようになりました。この経験で日本政府が、在日韓国・朝鮮人を極力無権利にしておこうと考えていること、それがいやなら屈辱のなかで日本国籍を取るしかないようにしていることがわかりました。この経験が自分に在日朝鮮人として生きること、年金差別に抗議することの最初の原動力になったと思います。

◆障害者韓春着にとっての年金の意味

 年金というと健常者の人にとっては、高齢になってからの問題として若い間は比較的関心が薄いと思います。障害者の場合、働くことが難しいか、また働いてもそれのみで生活を支えることはほとんどの場合困難なため、そのいくらかの保障として非常に大きな意味があります。
 働いても生活が支えられないというのを少し説明すると、第一に、正規の事業所などでの雇用であってもその障害による能率の低さ等を理由として届出をして許可されれば、最低賃金を守らなくていいという規定があって、障害者は最低賃金に守られていないということがあります。また何とか最低賃金だったとしても一般的に昇給は非常に遅いし、ある職場で長い間働きつづけることは体の問題もあり、難しいことが多いのです。
 そして障害者の労働に特徴的なことは正式の雇用でない形態がいろいろあって、たとえば代表的な授産施設での労働では、平均月一〜二万の工賃(給与に当たるもの)が普通で、法的にも労働者としての扱いではありません。
 要するに政府の差別政策や無策、労働現場での差別などがあるので、働ける場合でも、それのみで人間らしい生活が出来るということは非常に少ない(特に重度障害者にとっては)ということです。働けない場合はもちろんのこととして、年金は障害者の生活を支える最低限度の保障としての位置を持っています(実際に最低限度が保障されているかどうかは別として)。一九八六年までの二〇歳以前に障害者になった者に対する年金は、障害福祉年金として、重度障害者の場合で月三万円程度でした。生活できる年金をという長い間の障害者の運動の成果で今では障害基礎年金として、一級の重度障害者で月額七万三千円余りになっています。これとて年金を主な収入にしている場合には、依然不十分なものです。しかしこれすらないということは、文字通り死のうが生きようが知ったことではないという姿勢であるとしか言い様がありません。

◆なぜ無年金問題が残ったのか

 在日韓国・朝鮮人の障害者などに日本人と同様年金を支給するというあたり前のことがなぜ残ってしまったのか。日本政府の差別体質と無責任さが第一の問題であるのはもちろんですが、それだけではないと思います。一つには日本の世論やマスコミが、在日韓国・朝鮮人に対する差別の存在を当然のこととして、政府の政策を批判してこなかったという事があると思います。八二年の国民年金の国籍条項撤廃以前から、その排除をマスコミや野党が問題にしていたなら、また、ただ国籍条項を無くすだけでは残されてしまう問題としてもっと論議されていたなら、もう少し違っていただろうと思います。
 そしてもう一つには、障害者運動のなかでは在日韓国・朝鮮人の存在が見えず、在日韓国・朝鮮人の運動のなかでは在日韓国・朝鮮人障害者の存在が見えないため(障害者問題を考えていないため)声が埋もれてきたということがあると思います。在日韓国・朝鮮人の障害者で活動をしている人の多くが日常的には障害者運動にかかわっているという事実と個人的な感想で言えば、この傾向は在日韓国・朝鮮人の運動のほうにより大きいのではという気がしています。
 どちらの問題も課題の大きさに比べて運動主体の側があまりに脆弱という問題もあって、何でもかんでもやるという訳にはいかないでしょうが、実際にはやる気があればやれるし、やるべきだということは多いのではないかと思います。

 無年金問題はそんな中でとりあえずやるべきだし、やってほしい課題だと思っています。 いま全国的に署名を集めています。来年早々に提出しますのでよろしく。また当事者の声を中心に、法的な説明も加えたパンフレット『黙ってたまるか!−在日外国人障害者に年金を!−』(年金の国籍条項を完全撤廃させる全国連絡会編300円)を作成しました。多くの人に読んでもらえたら幸いです。来年は何とか派手な行動ができたらと考えています。

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