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SaiVol.11(1994年夏号より)

ダイちやん日本国籍確認訴訟レポート

日本の排外意識を問う

フィリピン人の母と日本人の父をもつダイちゃん。このダイちゃん母子に退去強制命令が出た。

ニ人は日本から出ていかなければならないのか。

国籍法の冷たい壁

 日本の国籍法二条は、「出生のときに、父または母が日本国民であるとき」、その子どもは日本国民であると規定する。

 法務省は、この「父または母」とは、事実上の父母のことではなく、法律上の父または母を指すものと解釈する。そうすると、婚姻関係のない外国籍女性と日本人男性の間に生まれた子の日本国籍取得に困難な問題が生じる。なぜなら、出生前に父が「胎児認知」をしておかなければ、「出生のときに」法律上の父とはならないからである。たとえ出生後に父が認知しても、国籍法の冷たい壁に阻まれて、この子は日本人ではないとされてしまうのである。

届かなかった出生証明書

 ここにひとつのケースがある。

フロリダさんは三〇才になるフィリピン女性。五年前短期滞在ビザで来日した。既婚の日本人男性と知り合い、婚姻関係のないまま、九一年に男児を出産した。出産に先立ち、父はわが子を認知し日本で育てたいと希望、当時の居住地である広島市西区役所に出向き、胎児認知の手続を照会した。「母親の出生証明書が必要」と言われ出産予定日の二か月前にフィリピンの家族に送付を依頼した。家族は九一年八月上旬に発送したが、当時フィリピンでは大規模な火山噴火のため郵便業務が遅滞、九月に入っても出生証明書はフロリダさんの手元には届かなかったのである。

胎児認知届、受理されず

 このままでは間に合わないと判断した父親は、九月一二日区役所で事情を説明し、とにかく胎児認知を届け出たが、役所の担当者は「書類不備では無理」と受理を拒んだ。

 九月一八日、胎児認知届が受理されないまま、フロリタさんは男児を出産した。子は大輔と名づけられたが、日本国籍は得られなかった。九月三〇日、両親はようやく到着した出生証明書に翻訳文まで付して区役所に持参したが、役所は三〇日付で認知届受理とし、胎児認知として扱わなかったのである。

退去強制命令が、
発布でいいの!六法をよめ!

 その翌年の九二牢八月三一日、法務省入国管理局はフロリダさんとダイちゃんが出入国管理法二四条一号違反と認定(正当な旅券を所持せず本邦に入国……日本で生まれたダイちゃんが旅券を所持している方がおかしい)、母子には退去強制のおそれが生じた。父は弁護士に相談し、広島家庭裁判所にダイちゃんの認知届が胎児認知として受理されるべきとの審判を申し立てた。

 あくる九三年三月、入国管理局はダイちゃん母子に対し退去強制命令書を発布、二人は入管庁舎の一室に収容された。二日後、母子は仮放免となったが、四月二二日に退去強制を執行すると言い渡された。

 三月三〇日、家裁の審判が却下された。ダイちゃんの弁護団は、四月二〇日、次の三つの訴えを起こした。

【1】 退去強制処分に対する行政執行停止の申立

【2】 退去強制処分命令の取消を求める訴訟

【3】 ダイちゃんの日本国籍の確認を求める訴訟

 この【1】の執行停止の申立とは、【2】の訴訟の結果がでるまで、仮に退去強制を停止するというものである。

 これにより、当面ダイちゃんとフロリダさんは日本に居住する権利を保留している。しかし、【2】と【3】の裁脚刊の結果如何によっては国外退去もあり得るという不安定な状況が続いているのである。

「不法残留外国人の子」?

 【2】【3】の裁判は現在も係続中である。被告である法務大臣および国は、全面対決の姿勢を崩していない。ダイちゃんには日本国籍はなく、「不法残留外国人の子」として国外退去の必要あり、というのである。

 もしダイちゃんの日本国籍が認められれば、母であるフロリダさんにも、当然、特別在留許可などの日本で暮らしていける道が開かれる筈である。

 また、ダイちゃんの両親が法律上婚姻していれば、そもそもダイちゃんの国籍取得が問題になることはなかった。そういう意味で、この事件には、外国人差別のみならず、婚外子差別の側面もあるといえよう。

日本人の父を持つ子どもたち

 日本で働く外国人女性が目本人男性との間に子をも、つけるケースは、実際にはかなり多いと思われる。しかし殆どの場合、男性側は認知などせずに逃げを打とうとするのが現状である。日本人の父を持つ子どもたちには、国籍はおろか日本で暮らす権利さえ与えられず、不法残留外国人として入管行政の餌食となっているのである。ダイちゃんの父は、息子と共に日本で暮らす権利を得るために胎児認知を決意し、その手続きに奔走した。それが、偶然の事情によって書類に不備が生じたというだけで、ダイちゃん母子には退去強制の危機が迫っているのである。

 ダイちゃん母子は父と離れて国外で暮らすべきだなどと、一体誰に言えようか。

おごり高ぶった排外意識

 この事件を、融通のきかぬお役所仕事の典型、と評することもできよう。しかし、今も強固にダイちゃんの国籍を否定し、力づくで国外退去させようとする日本政府の姿勢には、「不法残留外国人の子などに日本国籍をやれるか」とい一つ、おごり高ぶった排外意識が見え一隠れしているように思えてならない。

 不法残留・不法滞在とは、この国に存在すること自体が「不法」という意味である。この国で生を受け、ましてや日本人の父をもつ子ども達に、一体何のために「日本人」「外国人」という線を引き、父を奪い、生活の場を奪うような真似をするのか。外国人の出入国管理は各国の自由と言われるが、「不法」「合法」の線引きのもつ意味を、改めて問い直すべきではないのか。

 この国に暮らす者のひとりとして、ダイちゃん裁判の結末に、裁判所の公正な判断を望みたい。


SaiVol.10(1994年春号より)

国籍条項の撤廃を求めて

香川から

香川県職員の国籍条項を考える有志の会

中村証二

始まりは安さんの身世打鈴

 昨年(九三年)五月から、韓国・朝鮮に関心を持つ四国学院大学の教職月・学生で毎週一回の集まりを持ち始めました。途中で 「ごった煮ハンマダン」と名づけたこの会、初めのうちは参加者各自の自己紹介をかねた発題と懇談という形式をとり、毎回一人か二人ずつの担当者を決めて進めていきました。

 六月一日は社会福祉学科四年の安敦子ポさんの担当でした。在日三世の彼女は、実に率直に自分の生い立ちや考えを語ってくれました。

小学校五年まで自分が韓国人だと知らなかったことから始めて、名まえのこと、家族や親戚の受けている差別のこと、本名で通っているこの大学で出会ったこと、感じたことなどを静かな言葉で話してくれたのです。彼女の語る内容にも、飾らない語り口にも感動しました。やがて話は目前の就職の悩みにおよび、できれば香川県内で働きたいこと、県職月採用上級試験 (福祉) を受験したいが国籍条項のため道が閉ざされていること、しかしどうしても納得がいかないので願書だけは出しに行こうと思っていること、せめて国籍条項について大勢の人に知ってもらい考えてもらいたいと願っていることなど、ずっと心の中で反芻してきたであろうことを、言葉をたしかめ確かめしながら話してくれたのです。

 驚きました。どちらかというとおとなしい目立たない学生で、いわゆる民族差別問題には一歩距離を置いて慎重にかかわっていると見えた安さんが、ひとりでそこまで考えていたとは。しかし、ゆっくり驚いている時間などありません。県職月採用試験の願書締切は三日後の金曜日なのです。勿論、安さんを一人で県庁に行かせることはできません。すぐ具体的な打合せに入り、六月三日 (木)に皆で県庁へ行くことを決めました。

県との交渉−手応えなし!

 第一回の県庁での話し合いには十二名の仲間が加わりました。人事課の部屋でカメラや記者が見守る中、ともかく門前払いを避け、安さんの願書のうけつけと国籍条項検討に持ちこむために、皆一生懸命でした。しかし、言葉をつくしての訴えにもかかわらず、県側には前向きに検討する姿勢はついに見られませんでした。思いを込めて書いた安さんの願書は「預かり」 となり、五日(土)にごく簡単な文面の添え書きとともに速達で返送されてきたのです。怒りにえ、涙を流す仲間の学生の姿が脳裏に焼きついています。

安さんとその仲間たち

現代学生にも友情&根性!

 このままではせっかく勇気を奪い起こして日本社会へ問いかけてくれた安さんの気持ちが無になってしまう−そう判断した私たちはこの問題をもっと大勢の人に知ってもらい、県の態度変更を求めるために署名活動を始めました。十五日(火)「国籍条項の歴史と現状、展望についての勉強会」を持った後、要望書の文面作成。十七日(木)から二十三日(水)の一週間で、二千四百十二名もの署名が集まりました。二十五日(金)に県へ要望書・署名を提出。翌日人事委員会より、委員長との話し合いが可能との連絡が入り、二十八日(月)五名の仲間と委員長とで話し合い。二十九日(火)には、香川県議会で国籍条項についての代表質問があるとの情報が入り、傍聴に出かけました。あわただしい数週間、しかし、県側の回答は一貫して変わらずー悔しさがつのりました。

 夏休みに入る前にもっと大勢の友人にこの問題を正確に伝える必要を感じた私たちは、七月八日(木)に「外国人が公務員になってもかまへんのちゃう集会」を開きました。われわれの経過報告や安さん自身の話、岡大から招いた石田米子さんによる「『国籍』と住民−地方公務員の『国籍』条項を考える」と題した講演。七十名ほどの参加者を得ました。

 その後も機会あるごとに各地で訴えを続け、十二月二十四日(金)に第二署名として八百八十三名分を県へ提出し話し合いを持ちましたが、県側は六月から何一つ前進のない態度に終始しました。

無念の歴史に終止符を

 恥ずかしい話ですが、正直に言うと私自身も安さんの問題提起に出合うまでは公務員の国籍条項を自分の問題として考えていませんでした。保守的・閉鎖的、在日韓国・朝鮮人の少ないこの香川で、友人のぶつかった身近な問題として国籍条項の壁をようやくはっきり見ることができました。様々な国籍の市民が住民として対等にそれぞれの生き方を尊重しあえる社会を追求する上で、国籍条項は醜い障壁でしかありません。この壁の前に無念の思いで立ちつくさねばならない人をこれ以上つくらないで欲しい。

 国籍条項よ、一日も早くなくなれ!



SaiVol.9(1993年冬号より)

在日の未来をかけた闘い

次の世代のための参政権
選挙管理委員会相手に十一名が提訴


 「九一年問題」の論議がたけなわの一九九〇年四月、大阪韓国青年商工会の会合で、在日の参政権についての話題が持ち上がりました。

 私たちに参政権がないのは何故なのかを数回に亘り話し合い、私たちの時代に参政権獲得をと、弁護士等にも相談しました。九一年春に統一地方選挙が行われることと、「九一年問題」の中でも参政権要求事項が入っており、タイミングがよいので、すぐに法廷闘争に取り組むべきだとの意見が多数を占めました。そこで、一九九〇年九月一四日、大阪在住の在日二世を中心とする原告団一一名が選挙管理委員会を相手取り、大阪地方裁判所に提訴したのです。

次の世代のための参政権獲得

 一世たちは、言語に絶する迫害と差別に耐えながら、次の世代が力強く達しく生きて行くであろうことに望みを託し、歯を食いしばりながら、今日の同胞社会の礎を築いたのですが、参政権獲得を考えるまでの余裕はなかったのです。
 その労苦を目の当たりにした二世としては、人間としての、また、社会の構成員としての当然の諸権利を、次の世代のために獲得拡大して行く使命があります。私たち二世も数知れぬ苦難と屈辱を経験してきました。その結果、自尊心や自負心を持つよりも、朝鮮人であることを、ともすれば卑屈に思うという悲しい習性が身についています。このような、自己を卑下する消極的な態度をきっぱり捨て去り、民族の誇りを持って生きていける目茶社会を築きたいという願いもあります。そのためには参政権を獲得することが大きな力となります。そんな思いから、今回に提訴に踏み切ったのです。

在日対する根強い差別

 提訴したことがマスコミに大きく取り上げられた結果、原告の一の金男抒旭氏の経営する不動産会社が管理していたマンションの管理委託契約が取り消されるという被害が出ました。朝鮮人であるということが分かったからです。金氏は被害者意識で落ち込むということもなく、「未だに一部の日本人が韓国人に対し偏見や差別意識を持っていることを残念に思うが、在日の新しい未来づくりに精魂込めて取り組んでいく」と力強く言ってくれたので、私たち原告団も救われた思いでした。
 日本人は、西洋人に対する劣等感を、かつて植民地支配をしたアジアの諸国、とりわけ、韓国・朝鮮に対する優越感で埋め合わせてきたきらいがあります。この偏見や差別意識が世代を重ねて伝えられて、在日に対する差別を根強いものにしています。この意識を変革していくことは日本人の側の問題なのですが、私たち在日の側も共生の基盤を築くために、日本社会の構成員としての権利と義務を明確にすべきだと思います。

届け出ただけで国勢期が選択できる特別制度を設けるべき

 法廷闘争を進めるなかで、多くの不合理や矛盾があることを改めて知らされました。
 一九五二年四月のサンフランシスコ講和条約締結時に、法律によらずに法務省民事局長の通達で日本国籍を喪失させられたのですが、これは、「日本国民たる要件は法律でこれを定める」とした日本国憲法第一〇条だけでなく、「旧植民地出身者」に国籍選択権を認める国際法の精神にも反することです。
 これは参政権以前の問題ですので、立法府に見直しを求め、再審議するよう抗議・要望する必要があるものと思います。そして「旧植民地出身者」とその子孫に対し、各人の自由な意思に基づき民族の主体性を残し、届け出だけで国籍の選択ができる特別制度を設けるべきだと考えます。

SaiVol.8(1993年秋号より)

『非識字者からの問題提起』

新外国人登録法の問題点について

九条オモニ学校 小林直明

九条オモニ学校

 毎週月曜日の夜、東九条(京都市南区)の小さな教会にオモニたちが集まってくる。授業の始める30分くらい前にやってきて、朝鮮語と日本語のちゃんぽんで、あれやこれやとおしゃべりするのがオモニたちの習慣だ。
 大半のオモニが在日一世。年齢は五〇代から六〇代、七〇歳近い人もいる。昼間は、清掃業務や建設現場の日雇いなど、肉体労働をしているオモニも多い。
 オモニ学校には、学生・教師・会社員・主婦など、実に多様な「先生」たちが集まっている。開校当時は、在日朝鮮人の青年たちが中心だったが、最近では、様々な動機で在日朝鮮人の問題に興味を持つようになった日本人青年も多数参加している。
 週に一度、短い時間ではあるが、苦しい時代を力強く行き抜いてきたオモニたちと共に文字を学び、朝鮮の歌をうたいながら、「先生」たち自身、オモニの語る真実の歴史を学んでいる。

非識字の理由

 在日一世のオモニたちは、なぜ文字の読み書きが不自由なのだろうか。あるオモニにその訳を尋ねてみた。
 一九四三年、一八歳のときに西陣の帯屋で働いていた兄姉を頼って、オモニは日本にやってきた。渡日後三日目、軍需工場で働きはじめた。
「言葉もなんにもしらんのにねえ、今考えたら、監督さんの言うこともぜんぜんわからんかったわ。向こういけ!という言葉は、なんちゅう意味やろ思うてね、そんときはわからへんかったんや。」
 当時、日本の植民地政策で朝鮮語の使用は禁じられ、目本語を使うことが共用されていた。しかし、供出米の生産にきゅうきゅうとしていたオモニの一家にとって娘に教育を受けさせる余裕など、どこにもなかった。家庭の中では、朝鮮語を使っていたため、オモニは日本に来るまで、日本語をほとんど知らなかったという。
一ヶ月、二ヶ月と経つうちに、オモニは自然と片言の日本語を覚えていった。そして二〇歳のとき、日本で生まれた朝鮮人の夫と結婚する。オモニは、その後一〇年間で五人の子どもをもうけた。
 三〇歳のとき、オモニは働き詰めだった夫を失う。それからというもの、オモニは女手ひとつで五人の子どもたちを育てていくことになる。つらい仕事だったが、賃金がよかったので、五二歳まで友禅工場で働いた。生活するので精一杯、文字を学ぶ暇などなかった。
 子どもたちがそれぞれ独立し、やっと自分の時間が持てるようになったころ、オモニは長年の憧れだった郁文夜間中学校に通う決心をする。メッキ工場などでアルバイトをしながら、三年間通い続けた。
 卒業後、一〇年間のブランクを経て九条オモニ学校に入学する。
「一〇年間ほったらかしにしといたら、みんな忘れてしもうた。オモニ学校いくのも字を忘れんようにしょうと思うて行ってるわけや。若いときに覚えたもんは忘れへんけど、歳いってから覚えたもんは一日二日書かへんかったら忘れてしまう。毎日してもええぐらいや。」
「歳いってから学校行っても覚えるかいな。」と行って文字を覚えることを諦めてしまっているオモニも多いという。オモニたちの非識字の問題は、旧植民地政策に端を発するものであり、日本政府の責任において補償されるべき問題だ。文字の読み書きが不自由なのは、決してオモこたちの責任ではない。

新外国人登録法の問題点

 一九九三年一月八日、新しい外国人登録法が施行された。永住者と特別永住者に限り、指紋押捺を廃止し、代わりに署名と家族事項(日本に居住する父母と配偶者の氏名・生年月日・国籍・申請者が世帯主であるときは世帯を構成する者の氏名・生年月日・国籍・世帯主との続柄)を登録するというものだ。
 法務省をはじめ、関係の各行政機関は、悪いイメージのつきまとう「指紋押捺」の廃止を改「正」と称して前面にアピールしている。実際、法務省の発行している宣伝ビラを読んでいると新外国人登録法の施行によって、すべてが解決したかのように思えてくる。
 しかし、私たちは、非識字者の立場から外国人登録法は、なんらかの事情で署名が困難な者について、登録証明書の切替期間の短縮措置を規定している。本来、五年後にやってくる登録切替を障害等の理由で署名できない者については、一年又は二〜四年後、署名拒否者については、2年後を指定するというものだ。
 「障害等の理由で署名できない者」の中には、文字の読み書きが不自由なオモニ学校の生徒たちも含まれている。文字を覚えたいと思っても、なかなか覚えられないオモニたち。六〇代七〇代になって、はじめて鉛筆を握ったオモニもいる。植民地時代、日本政府によって直接的、間接的に文字を奪われたオモニたちが、なぜ今になってこのような差別的制裁を受けなければならないのだろうか。
 京都市で在日朝鮮人が最も多く住んでいる南区では、既に三人のオモニたちが「名前が書けない」という理由で登録期間を短宿されている。日太政府はオモニたちの非識字の問題をどのように認識しているのだろうか。もし、この問題についてよく知っていたのであれば、「法の下の嫌がらせ」だとしか考えられない。一部には、「字が書けないからといって登録期間を短縮するのなら、指紋をとって五年間有効の登録証明書をくれ!という声さえもあがっている。
(注)署名の他にも家族登録の問題など、新外国人登録法に関する問題は多い。しかし本稿では、「非識字の立場からみた署名」 に問題をしぼるため、あえて他の問題にふれなかった。

オモニたちの思い

 「けどもな、なんでそういうことをいうねんやろなあと思うわ。」
外国人登録法の署名問題について、オモニたちは口をそろえて言う。「指紋はやめたけど、やっぱりなんかで締めつけんと気がすまんのやろ、日本の政府は。」「私ら、もう四年も五年も生きとるかわからへんのやから、もういじめんといてください。」私はオモニたちの言葉に、日本人として、何かやりきれないものを感じる
(こぼやし=なおあき)

SaiVol.7(1993年夏号より)

子どもとの間をむすぶ力

定住外国人である五歳のこどもをめぐって、民族の尊厳を守ろうとする朝鮮籍の父親。
それを否定し、逆訴訟しようとする、離婚した日本人の元妻。

結婚と教育における民族差別をささえる行政。

李在一さんの場合を報告していただく。

 三重県一志郡在住の在日朝鮮人二世の李在一さんは、一九八七年、日本人女性のAさんと恋愛結婚し、妻の実家の婿養子となりました。が、九二年三月末、津地方裁判所での和解手続きをへて、Aさんと離婚、その両親と離縁しました。その際、結婚の破綻の原因がAさん側の家族ぐるみの民族差別にあったことを明らかにし、Aさん側による謝罪と慰謝料の支払い、一人息子(現在、五歳)の親権をかちとりました。
 「和解」という形こそとりましたが、裁判官が提案した条項は李さんの主張にほぼそったもので、事実上、「裁判」の勝訴とみてよいものです。

子どもから引き離そうとする力と子どもとの絆

 李さんは結婚生活を続ける間、はじめからAさんの両親による露骨で異常な差別的言動にさらされていました。信じられないことですが、Aさんの両親が娘に民族差別思想をふきこんでからは、何とか李さんを追いだそうとして、対象も李さん本人だけでなく、彼の親族にもおよびました。「裁判」を見守った多くの支援者や関係者に非常に強烈な印象をあたえたはずです。
 「いまどきこんなひどい差別があるだろうか?」「こんな露骨で非常識な差別をする者がいるだろうか?」と。ほとんどの人がこう思ったにちがいありません。
 「民族差別の屈辱を受けたうえに、裁判にもちこんだAさん側一家のやり方に、とうとう堪忍袋の緒が切れて、彼は裁判で真っ向から闘った」。こんなふうに思った人がいるかも知れません。

 しかし、李さんが何よりも大事に考えていたのは、子どもとの絆でした。彼は「子どもがいなかったら、とうの昔に離婚していたし、屈辱的な民族差別を耐えしのぶようなことはなかっただろう」と言っています。ですから、離婚裁判のときも、慰謝料など他の条件より、親権を認めさせることを何よりも重視していました。父親の「メンツ」といったようなことではなく、李さんにとって、人間の生き方の根太にかかわる事柄なのです。どうしても許せなかったのは、Aさん側が子どもを自分からむりやり引き離し、隔離しつづけたことです。
 裁判(和解)の結果、子どもの親権は李さんにあると認められました。ただ、子どもが幼いので、監護者はAさんに認められました。しかし、九二年四月からはじまった息子さんとの月二回の面会では、子どもの送り迎えのたびに、Aさんの態度は異常なものだったようです。さらに、Aさんは子どもに父親を会わせるにあたって、「あの人はお父さんではない。ドロボウだ、悪い人間だ。あの人の家は恐ろしい所だ」というような悪質なウソをふきこもうとしてきたようです。こんなことが、子どもの口から次々ともれてきたのです。
 それでも、幼い息子さんは李さんが自分にとってかけがえのない世界でたった一人のお父さんだということがわかっているようです。面会のたびに、最初はかたくなな態度をしめしても、父親と二人きりになると、すぐうちとけてくるそうです。ある面会の日、お寺かどこかを父子で訪ねたとき、「何をお祈りすればいいの?」という息子さんに、李さんは「お前のお母さんが幸せになるようにお祈りしなさい」と答えました。ですから、息子さんは幼いながらも父親を信頼こそすれ、嫌うなどということはこれからもありえないでしょう。

「氏の変更」と「国籍離脱」

 李さんは、和解の際のAさん側の、文書による謝罪がいかに字句だけのことであったかをまのあたりにしました。そして、やがて、確固とした信念をもって、子どもの李姓への「氏の変更」と「国籍離脱」による朝鮮籍への変更という、親権者だけに認められた法事続きをとりました。
 李さんのこのような行動にたいして、多少疑問をもつ人がいるかも知れません。ある人は「姓は社会の中の単なるコードにすぎない。わざわざ変更するまでもない」と言い、また、ある人は「国籍なんて関係ない。なに人でも同じだ」「日本国籍のままにしておいたほが、将来、就職などで選択の幅が広がるから有利じゃないか」などと言いました。
 しかし、このようなことを平気で言う人は、九割もの在日朝鮮人が、なぜ今日にいたっても、日常的に日本式の通名を使わざるをえないのか理解できないでしょう。日本人同士では単なる識別コードでも、それが在日朝鮮人と日本人との間では別の意味をもちつづけてきたのです。しかし、本名があるのにそれを隠し、通名を使わざるをえないという状況こそが問題だということに、多くの若い世代が気づきはじめています。李さんの場合でも、子どもの「氏の変更」を認めようとしないAさんや、その必要を理解できない人々こそ、心の奥底に差別思想をやどしていると言えます。
 「国籍離脱」についてもまったく同じです。「日茶国籍の方が将来有利だ」「これからも日本で生活していくのだから、わざわざ国籍を変更するまでもない」という考えの中に、現在の在日朝鮮人への社会的・政治的差別を追認して、何の疑問も感じなかったり、社会の中に個人を位置つけることなく、自分本位でしか物事を考えられないような発想がありはしないでしょうか。
 李さんの息子さんはそんな中で、国籍離脱はしたものの、同居者であるAさん側が拒否しているため、外国人登録ができず、現在、「幽霊人口」のまま放置されています。津市に住みながら、住民として認められていないという無権利状態におかれたままでいます。今後も何年かは母親のAさんもとで育てられるでしょう。しかし、これまでのいきさつから、朝鮮民族を否定しつづけ、軽蔑しつづけるでしょう。李さんは何としてもこれだけは防ぎたいのです。いくら母親でも、子どもの父親の存在や人格を否定することはできません。このことを無理やりしようとすれば、息子さんの人格形成に悪い影響をあたえ、とてつもなく大きな不幸を背おわせることになるでしょう。そうではなく、自分が、朝鮮籍をもつ朝鮮人の子であることを肯定し、自然に感じられるような生き方こそ心を広くし、強くするはずです。

「国籍なんて関係ない!?」

 劇作家のつかこうへいは、『娘に語る祖国』(光文社刊)という本の中で、在日韓国人の自分と日本人の妻との間に生まれた娘を日本国籍にしたという、自らの選択について述べています。けれども、つかこうへいの場合は、妻が夫の立場を尊重し、夫の選択にまかせたという人間関係の中でのことでした。李さんもAさんが彼の立場を尊重していたなら、子どもの国籍を変更しなかったでしょう。つまり、国籍が何であれ、信頼のうえになりたつ人間関係では、日本人と朝鮮人の関係について正しい教育ができます。そうしてはじめて、「国籍なんて関係ない」と言えるのです。それは、民族や国籍に無関心になることではなく、どんな民族・国籍の立場からでも物事を正しく見つめ、問題を解決するために行動できるという意味で、「関係ない」ということです。
 李さんの場合、子どもの国籍はどちらでもよいというわけにはいきませんでした。むしろ、積極的に姓と国籍を変え、Aさんに法的にもはっきり自覚させなければならないと判断しました。また、日常的には、Aさんの家族にかこまれて、差別的な環境におかれている息子に、将来、それに負けないようなしっかりした自覚をもてるようにするために、幼いころから、特に小学校に入る前から朝鮮名を使わせることがぜひ必要だと判断しました。そのために息子さんを朝鮮籍に変えなければならなかったのです。これからの時代に求められるのは、差別から逃げるのではなく、あるいは、わが子を差別から「隠し、かくまう」のではなく、不当なことは不当と感じ、自然な表現ができるように日本社会を変えていくことではないでしょうか。子どもたちを、差別や不正義に負けず、強く、しかも、自然にふるまえるように育てることではないでしょうか。
 李さんの選択は、こうした考えに人生をかけて、自ら、親子で実践しようとするもののように思えます。彼の望みがかなえられるには、何年かして、息子さんを引き取るか、あるいは、息子さんが成長して、父親の信念に共感するようになるまでかかるかも知れません。それは孤独で息の長い闘いになるかも知れません。誰も李さんに代わって、その闘いに加わることはできません。しかし、彼の闘いの節目節目で、李さんを側面から支え、励ますことはできると思います。どうかみなさん、李さんを支援するため、ご協力ください。


SaiVol.5(1993年春号より)

差別される側に立って見直さない限り、差別はなくならない。
15年前の大阪市生野区での反入居差別のとりくみ
茨木耕作

「同じ日本人として恥ずかしいから」

 それは、一九七八年四月、定期異動が終って新年度の陣容が整ったばかりの時期でした。
 生野の住宅を考える会(以下、「考える会」)の代表が、生野区選出の若林府議会議員の紹介で要望書を提出し、生野区内での民族差別にもとづく入居差別について陳情したのが幕明けでした。
 当時は、消費者、一般府民の申し出に積極的に取り組むことを「モットー」に毎日の仕事をすすめていた時期でした。相談のすべてが売買に関するもので、所管していた法律そのものが「宅地建物取引業法」であり、売買の取引が主体であって、賃貸借関係の取引は従属的な取り扱いになっていることから考えても、賃貸入居についての相談は皆無といってもいい程度でした。
 要望を受けている担当者を含めた私たちは、予備知識もないまま「考える会」の申し出を一方的に聞かされるだけでした。
 まずは、お役所、家主への指導は権限外だとか、業者団体を通して指導するとか、その場しのぎの対応をしたように思います。
 しかし、一度現実を見てほしい、五月の日曜日に「考える会」の集会があるので出てくれませんかとの申し出は、断ることができず私が出席しました。
 その時の真剣な訴え、今とちがい住宅が不足している時期だっただけに、聞き流したり、聞き置くといったことではダメだ!と思い知らされたのです。
 そして六月、「考える会」と大阪府、宅建協会、公正取引協議会の懇談会が地元の聖和教会で日曜日に持たれたことで、マスコミが取りあげ、大きくクローズアップされました。
 その時に、煮え切らない業者団体の姿勢に対し、私が「日本人として恥だ」といったことが毎日新聞で取りあげられたのですが、私の心のなかに、日本人という意識がありました。今この文章を書かせていただいて、私のなかにあった、差別の心をそれこそ改めて思い知らされているのです。
 理屈ではない、厳しい現実。生活の基盤である住宅についてのことだけに、懇談会というよりも「住民大会」になったことは当然と思えますが、地元の方々の追求は並大抵のものではなかったことを覚えております。
 そして私自身、生半可な取組みでは納得してもらえないことを痛切に感じました。
 そして、民事的なことに立入ることになるが……と上司に断り、担当者全員を集めて、協議しました。その結果は全員が前向きの姿勢で積極的に取組むことを前程として行動することで一致、早速「考える会」から要望のあった【実態調査】を、生野区内の宅建業者を対象に実施いたしました。
 当時の国鉄環状線桃谷駅を出たところから、「考える会」のメンバーと新聞記者が同行する異様な集団による立入調査には、宅建業者もすくなからず動揺があったようです。

「外人不可」「要住民票」の文字は消えても

 実態は想像していた以上で、一軒の業者の調査に約一時間かかりました。表示(表のガラス戸等に貼っている)に「外人不可」「要住民票」と堂々と書かれている、チラシ広告にも同様のものがありました。表示が消えていても、取引台帳、物件台帳には同様の主旨のものがあり、なかには朱書きで目立つものもあったと記憶しております。
 「考える会」のメンバーは、その前の年の秋から、運動の一環というより、やむにやまれぬ気持から各業者を廻って、差別物件を扱わないようにお願いし、約定に署名してもらう運動を展開していましたが、もめることも多かったようです。大阪府宅地建物取引業協会生野支部とも交渉をさねており、地元生野では、業者仲間のガードが出来ているとのことでした。調査では事実を裏付けるように、表示とか目立つところからは「外人不可」「外人不」「要住民票」は消えていても台帳や、内部書類には、歴然とした差別の実態が見受けられたことが今改めて思い出されて、それだけ陰湿化した差別実態に容易でないイメージが強烈に残っています。
 六月下旬、大阪府が招集して、法務局の人権擁護部、生野区役所区民室、生野共同住宅組合、公正取引協議会、公正取引委員会、大阪府宅地建物協会、そして考える会の代表が参加して、差別をなくすためになにをなすべきか、具体案と出来ることを話合い行動することを打合せましたが、消極的参加が多く積極的な意見はすくなかったです。
 先の実態調査で、実態としての差別がなくても、「家主から要求があれば仕方がない」とか、「生野で商売してたら常識や」「韓国人専用の住宅かてあるがな!なんで俺の処へ来たんや!」等々。説得するための時間が必要であったし、また、「わかったもう差別はせえへん!帰ってんか!」といわれて出て来ても、決して納得して了解されているのではなく、うるさいからエエかげんなことで濁しとけといった様子も多々見受けられました。口頭や文書できれいごとを並べても、解決することではないのが差別なのだと肝に銘じたぐらい、困難さは今から思えば大変なものでした。担当者が熱心に取組んでくれたことについてはいくら感謝しても足りないと思っています。
 何故なら、役所は閉鎖的なところであり、責任転嫁ということでもないが、なるたけ余計なことはしないのが能吏であり、私のようにあえて火中の栗を拾うような行為は、白い眼で見られがちです。現に後任が因るとか、どこまで拡げるのかといった忠告も多々あり文字どおり内憂外患といったところ。係員との連帯がなかったらとても勤まらなかったと存じます。

府営住宅や公社公団も「外人不可」だった

 また、今だから言えることですが、いつの時代でも、卑怯卑劣な人はいるもので、いやがらせの脅迫電話には弱りました。「お前、本当に日本人か!」「月夜ばかりやないで!」「弱い業者いじめて面白いか!」家族まで巻込んで深夜の無言電話まで、あまり気持のよいものではありませんでした。家族がおびえる程のものでしたが、職場でのみんなの取組が救いでした。これがなければ私も逃げていたと思います。
 その後、地元生野区の公共施設を利用して考える会との懇談会、生野区内の宅建業者を集めての研修会も実施いたしました。この折に研修会の講師に「生野区の住宅を考える会」の代表を入れるように要請があって、衝突したこともあったし、生野警察署の外車課のおまわりさんが困ったことが生じたら相談してくれるようにと申し出てきました。話を聞いたら、各都道府県の警察署には必ず外事課があるが、地域警察署で外事課があるのは、全国でも生野警察署だけであると変な自慢話のようなことをいわれたのを見ても、生野区がどんな地域か想像できるでしょう。
 現在は修正されていると思いますが、融資(住宅ローン)も日本人でないとダメ、金融公庫は勿論、府営住宅や公社公団の住宅も、日本人でないとダメ、「外人不可」だったのです。
 こんな事実がその後判明して、業者側が反発したり、宅建業指導係が窓口であったのが直接知事を窓口にされてしまって、府白身が転換を迫まられることになりました。姿勢を正し改めなければならないのは行政指導している府ではないかと業者の反撃は相当なものがありました。

新たな差別が生み出されていないか?

 はじめ、業者側と「考える会」とが対決する形であったのが、協力しようという姿勢が生まれ、話合っているうちに、公共の補助を受けた「特賃」なる物件は、区の方の規則で日本人にしか貸せない等、行政側の差別項目が表面化しました。あとさきはあったが在日本朝鮮人総聯合会大阪本部や、在日大韓民国居留民団大阪地方本部から各々要望が出される等、生野区の住宅を考える会の運動が中央へも広がり、建設省や公団、自治省等へも要望が出されるまで発展したのです。
 私たちとしては、できることは全部やりつくしたように思っています。広告の媒介業者を集めて講習会、研修会もやって、「ここまでやるの」といわれたのも事実です。
 また、本当にあった事例なのですが、たしか今里の方に近いマンションだったと思いますが、姉弟が韓国人だということで入居を拒否されたことについて、仲介業者を説得、マスコミや考える会の応援もあったことなのですが、仲介業者が家主を説得してくれて入居ができたことがありました。
 この場合、姉さんが生野区内で保母さんをされており、私も、「人の子どもさんを預って、保育する保母さんのどこに不足があるのか、社会的に信頼されないとできない職についている人に「住宅」を貸すことができないとはどういうことなのか!」と言ったようなことを思い出しました。
 しかし、こんなことでよいのか、たまたま表面化した現象を納めることができたからといって喜べるようなことではないのだ!説得したり、話合ったりするだけではダメなのだと思います。
 住宅の方が11%も世帯数を上廻っている昨今、今だに陰湿化した入居差別がある事実。
 当時「50年前と同じ記事 私は書く」と民族差別を指摘された毎日新聞の八木さん、今度はどんな見出しで書かれたのか?
 差別される側に立って見直さない限り、差別はなくならない。
 グローバルになった時代の流れのなかで、難民、雇用、まだまだ新しい差別が生み出されるのではないでしょうか?
 大変抵抗の多いなかで種々なことができたのも「考える会」のメンバーの熱意があって、担当者の理解が支えとなっていたことが裏付けでした。
 私自身「日本人として恥かしい……」などと思いあがりがあったこと、また差別の心があったことを深く反省して筆を置きます。

(社団法人大阪住宅産業協会常任理事 いばらき=こうさく)

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